Story 5. Pond (池) /水盤

English version : Story 5. Pond

この花器は「池」を再現している。

「池」を構成する要素を極限まで減らした。
私が持っている「池」のイメージを極端に単純化していくと、「水面」とその水面に浮かぶ「月」が残る。

この花器は、水面に浮かぶ月、この空間を作り出す。

その水面には、波もなく、風もなく、ただ時間が停止したような空間があるだけー

そこに草花を配置する。

静かで、乱れのない、透き通った瞬間を感じられる。

前作のDimensionは境界の融合、Insideでは空間の分離ついて考えた。
本作は、花器に張った水面を”境界”として捉えたもの。

四角い枠の中に円状の穴があり、そこに水が入る。その内側にさらに白い円柱が配置されている。

アイディアの経緯

書籍「13歳からのアート思考」(著者 : 末永 幸歩) の冒頭に、面白い逸話が紹介されていた。


美術館に展示されているモネの絵「睡蓮」。
それを見ている4歳の男の子。
側にいた学芸員が男の子に感想を聞くと、男の子は「かえるがいる」と答えた。

Water Lilies (Agapanthus), c. 1915–26. Claude Monet (French, 1840–1926).
Photo by The Cleveland Museum of Art on Unsplash

学芸員は「睡蓮」には蛙が描かれていないことを知っているので、
「え、どこにいるの?」と聞いた。

男の子は、「いま水にもぐってる」と答えた。



このエピソードは「ものの見方の本質」を説明したものである。男の子は自分だけの見方で[睡蓮]を見て、自分なりの答えを見つけた。

私はこのエピソードを読んで、その子の蛙はその後どうなったのか?どこにいったのか?と気になった。

男の子は、睡蓮の絵を見て池に浮かぶ葉っぱや周りの風景から蛙を想像した。または本当に見えた。そしてその蛙は動き出してどこかにいってしまった。

この一連の「イメージ」はどこまで続くのか。
もしくは続かずに、彼の頭からは忘れ去られて消えてしまったのか。
それとも「イメージ」が独り歩きして、まだどこかに存在しているのか。

たとえば、このエピソードを見聞きした誰かの頭の中で、蛙はまだ水の中を泳いでいるのか。

見たものと想像の境界

このように想像を巡らせると、ひとつの絵、ひとつのエピソードから、無数の世界が生まれているように感じる。もしイメージが広がりはじめるきっかけがあるとしたら、蛙が水の中に飛び込んだ瞬間だ。そこから先は無数の可能性が存在する。

「水面」は、鏡のように光を反射して世界を映し出し、水面下を見えなくする。
または、透過して水面下を覗かせる。

空気で満たされた空間と水の空間、その境界としての水面。とても意味的でもあり、物理的にもまさしく”境界”である。

Photo by Michele Guan on Unsplash

池 水面の動きと時間の流れ

その昔、松尾芭蕉が詠んだ有名な句「古池や 蛙飛び込む 水の音」をイメージしてみる。
おそらく、芭蕉さんは蛙を見ていない。もしかしたら池さえも見ていない。静かな藪の中で独り座って、心を落ち着けていたら、突如近くでポチャンという音がしたのだ。
その音を聞いたことで、水面に波紋が広がる様が頭に浮かんだ。
そして、それまでは無音、無気配で、まるでその瞬間まで時が止まっていたかのような感覚を彼は得たのかもしれない。

何もない静止した水面に、ポチャンの音と共に、波紋が池全体に広がる。

Photo by Linus Nylund on Unsplash

水面はまるで、「時間の静止」と「時間の進行」の境目になっているようだ。

蛙はなぜ池に飛び込むか?

水面を「境界」として意識すると、なぜ蛙が池に飛び込んだのかの答えが出てくる。

「別の世界へ行きたかったから」だ。
(無論、実際は皮膚の乾燥とか、餌があるとか、そういう理由でしょうけど)

恐らく、芭蕉さんが音を聞いたのは、暗い時間。絶対に夜!(これは完全に私の妄想です)

蛙は、水面に映ったまるい月に行くつもりで飛び込んだ。月のうさぎに会って、鳥獣戯画よろしく一緒に踊ろうとでも思ったのかも。とにかく、まるい綺麗な月に一度は行ってみたいと思ったのではないか。まやかしではあったが「届くかもしれないと見えた美しい世界」、または「未知の水面下の世界」、その世界へ飛び込んだのである。

境界を越えようとした。

井の中の蛙、大海を知らず、それでも月に向かって飛び込む。お前の知っている世界はごく一部?そんなの関係ねー、やってみるよ!である。
蛙は月に届かなかったかもしれないが、水面の下には別世界が広がっていたはずだ。

人はなぜ月を目指すのか

ムーンショット
実現が困難な壮大な独創的な目標のことを、「ムーンショット」と言う。実現すれば大きなインパクトをもたらす。人によっては無茶な漠然とした目標というネガティブな意味に聞こえるかもしれないが、基本的には、「ムーンショット決めようぜ!」のようなセリフとしてポジティブなものだ。

人は、空、星や月に願いをかける。

また、月に行くことを目標の代名詞のように使う。

つまり、空を見ること、星月を見ることは、希望や願いに近いものとして位置づけられている。

境界としての水面が持つ意味

水面は、現在の自分の顔を映しだす鏡となる場合もあれば、別の世界や希望としての、星空・月を映す鏡になる場合もある。水面を「飛び込む先」として捉えるなら後者の「希望」となる。

水面に、希望の虚像を見て、飛び込む。

水面の手前は現実。

水面の向こう側はよく見えない未来。

今いるこの瞬間と、未知の先。その境界が水面なのだ。

静かに月を眺める。そんな空間を作り出す花器を考えた。


形の工夫

いけばなは、通常は剣山が見られないように工夫するらしい。この水盤 Pondは2つのパーツでできている。内側の円形と外枠の透明な枠とで草花の茎を挟むことで、剣山を使わずに草花を配置できる。


※お皿やお盆のように広く浅い形の花器のことを、水盤や水盆と呼ぶ。

Story 4. Inside

English version : Story 4. Inside

円形の置き花瓶 [Inside]
円弧の内側に花を挿す箇所が複数あり、草花を配置できる。

「壁・床との分離」から「空間の分離」へ

前作[Independ]は、壁面・床面から分離して独立した生命として成り立つ「種」をモチーフとしていた。
今作の[Inside]は、「分離」の考えをさらに進めて、「空間の分離」をコンセプトにした花瓶。

一般に、花瓶は「部屋に花を持ち込むための装置」と解釈できる。
花瓶がその空間の雰囲気・印象を変える。

この[Inside]は、花を花瓶の内側の空間に生けるようにした。
部屋の空間と花瓶内の閉じられた空間とを分離している。
部屋に花を生けるのではなく、花が生けられた空間を部屋に置くというコンセプト。

空間の中心点を花瓶の中にずらしている。

「空間の中心点」とは、「どこを物事の中心として見るか」ということ。
例えば、私達は普通は「私は地球上に存在していて、私の周りの空気に包まれている。」と思っているはずだ。
しかし、もし全宇宙・世界の中心が自分の胃の中にあるとしたら、「自分の胃を裏返した形で、”自分の体”が全宇宙のすべてを包んでいる」と考えることができる。

花瓶の内側の空間は、草花だけが存在するだけとなる。
そのほかに何もない、究極的に純粋な空間である。

内と外を分けて世界を理解する

自分の中にあるものは、外界とは分離して持つことができる。

例えば、老人が公園で静かに座っていたとする。側から彼を見て、「暇そうだな。何もすることがないのかな。」と思う人がいるかもしれない。その見た目に反して実は、彼の頭の中では次々にアイディアを考え、目まぐるしく思考が巡っているかもしれない。

例えば、学校のクラスで「大人しい子」と周りから思われている少女が、誰よりも冒険的な夢や計画を持っているかもしれない。

もし、外と内の価値観がずれていた時に、何が「正しいもの」と決められるだろうか。決められない。
「分けられた内側の世界(空間)」は、すべてのことから独立しているーと考えてもいいかもしれない。

花瓶の中の世界をどう作るか、それを部屋に置いて、外側から見た時にどう見えるか。
彼/彼女の中にある、あの美しさはなんだろうか。

自分の中には何かあるだろうか。

そんなことを考えながら、花瓶の円弧をやさしく磨いた。

Story 3. Independent

English version : Story 3. Independent

一個の生命体「種」

種の形をした一輪挿し。

草花をいけると、種から芽が出てそのまま茎となり、花が咲いているように見える。

花瓶の造形は、ココヤシとピスタチオを参考にした。

南国の砂浜に、落ちているヤシの実から芽が出ている様子。ピスタチオの硬い殻から芽が出ている様子をイメージした。

種に水を与えると、発芽して根を伸ばす。

種一粒には一連の活動に必要な栄養素が内包されている。「種」が持つ、エネルギー、強さ、潜在性を感じさせるカタチを目指した。

下部の設置面を小さくし、少し地面から浮いているように見える様に工夫をした。

すべてから独立したもの

前作[Dimension]では、壁と花瓶の境目を無くすこと、壁と花瓶の融合がテーマだった。

造形のテーマとしては、できるだけ花瓶の存在感を無くすことと、壁との一体化を目指していたものだった。

今回はその反対に、花瓶の独立性をテーマに考えてみた。どこに置かれたとしても花瓶として存在するものー を形にする。

そこで今一度、花瓶が花瓶として識別される最小単位を考えることにした。

花を入れれば、多くのものは花器として成立する。
例えば、コップや試験管も花器として使われている。

そう考えると、花器としての必要要件は、”水が入ること”や”棒状のものを支えること”だ。それらの要件は、多くの容器にとって、特別な条件ではなくとても一般的なことだ。

それならば、その容器が花器であることを定義づけるのは、”花が置かれていること”や”そこに飾ろうとする人の意志”となる。

花を容器に入れた瞬間に、その容器は花器になる。
逆に、花を入れない限りは、花器であることを人に認識させることは難しいことかもしれない。
容器に入っている液体がお酒なのか雑菌達が楽しく暮らしている水なのか、その答えは飲んでみるまでは分からない。

花を入れる前に、その容器が花器であることを明確にするにはどうすればいいか。

それは容器の形状が”花”と関連していることが有効だと考えた。
花と関連した形こそが、その容器を花瓶らしくする要件になるのだろう。
このコンセプトをより具体化するために、”花”のアイデンティティ・独立性を考えてみる。

花の生命は、種から始まって最終的に枯れて終わる。花が地面に根差していても、つまれて花束のひとつになっても、花瓶に挿されていても「枯れる」までが、その花の寿命である。

花粉を通じて繁殖する連続性はあれど、花単体としては、ひとつの種からはじまるひとつの生命体だ。種からはじまり、種を残して終わる。

「種」は、未来の花(花を挿すこと)を予感させる。

「種」は命のはじまりと終わりを象徴する形だ。それは本作の”独立性”の表現としてぴったりだ。

願い」や「祈り」に似たもの

ひとつの生命体として相手を認識すること・尊重することは、相手を「自分とは異なるもの・離れたもの」と定義することとも言える。その際に、自分が相手に干渉する範囲を決めたり、自分ができることを諦めたりする。それは子離れ、親離れの時にある感情にも見られる。そのほかに仕事仲間の転職や組織変更、子供の卒業式、結婚などおめでたい時もあれば、友人が大変な状況に置かれていても自分ができることが限られている時などの難しい場合もある。

しかしどの場合においても、相手を独立したものとして捉えて「自分が関われなくても、うまくいってほしい」「幸せになって欲しい」とも思うものである。
この思いは、神様や運命のようなものに願ったり、祈ったりするものに近いかもしれない。

「祈り」を種の形の花瓶に込めた。